宮竹用水(石川県)
宮竹用水は、石川県の中央よりやや南側に位置する手取川左岸部の農地約2,480haを潤す疏水である。
能美市岩本町地内にある天狗壁に堰堤から隧道を通して取水していたが、上流には手取川右岸部を潤す七ヶ用水の白山堰堤があることから、手取川の流量が少なくなる7月から8月にかけては水不足となり、水争いが絶えなかった。
このため、昭和36年から国営事業が行われ、大日川ダムが建設されることとなった。この完成により七ヶ用水との間で分水協定が締結され、長年続いた水争いに終止符が打たれた。
その後、用水の効率化を図るため、七ヶ用水と取水口を統合する合口を行ったことで、天狗壁堰堤と随道が廃止されることとなり、七ヶ用水から分水された水は、逆サイフォンにより手取川の下を横断して、左岸部の宮竹用水へと配水されることとなった。
また、上流区間では、平成7年から上郷(小水力)発電所が運転を開始しており、水と自然の地形の高低差を活かしたクリーンエネルギーの生産が行われている。
手取川七ヶ用水(石川県)
手取川七ヶ用水は、石川県金沢市の南に位置する手取川により形成された日本でも代表的な扇状地の右岸地帯を潤す疏水である。古くは加賀百万石の米どころとして、現在も県下最大の穀倉地帯として約5,000haの水田を潤している。
古来より暴れ川といわれた手取川の本流・分流・入川跡を利用してできた富樫、郷、中村、山島、大慶寺、中島、新砂川の七つの用水から成っていることが、名称の由来である。
江戸末期の七ケ用水の取水口は、夏の日照りの時には水不足をまねき、大雨になるとすぐこわれて洪水を引き起こすという粗末なものであった。そこで、現在の鶴来町の商人であった枝権兵衛は、かんがい用水に苦しむ農民たちのため、岩をくりぬいて300mものトンネルを掘る工事を計画した。岩が思いのほか硬く、水が吹き出すなど難工事であったが、私財をも投げうった権兵衛の強い思いにより5年の年月をかけて完成した。この功績を称えて権兵衛は「七ケ用水の父」と呼ばれている。
明治36年(1903年)には、洪水及び渇水対策、配水操作の改善を目的にオランダ人技師ヨハネス・デレーケの指導の下、取水口の合口事業が行われ、大水門、隧道、給水口、幹線水路が完成した。
昭和36年からの国営事業による大日川ダムの完成は、水争いの絶えなかった下流の宮竹用水との分水協定の締結へと繋がり、これにより長年続いた水争いに終止符が打たれた。
近年では、水路の老朽化対策だけではなく、農村の都市化・混住化への対応として、環境に配慮した親水護岸への改修や親水公園等の整備が行われ、地域住民の安らぎと憩いの場を創りだしている。
城原井路(きばるいろ):神田頭首工:大分県
城原井路は、大分県竹田市の北西部に広がる約300haの水田地帯を潤す疏水である。
この疏水は寛文元年(1661年)、新田開発による年貢の増収を願う岡藩主中川久清公が、岡山藩より熊澤蕃山を招請したことが井路掘削の運びとなった。原始的な施工方法の上、土質は黒褐色の火山灰土や軟岩のため難工事を極めたが、その悪条件を乗り越えて寛文3年に竣工したとされている。
取水口である神田頭首工は、大正11年(1922年)にそれまでの板堰から練積石垣溢流式(石垣を積んで、目塗りをして水が上から溢れ流れる方式)に改修し、天然の岩盤をくり抜いた通称「はなぐり水門」を有している。
神田頭首工はその独特な工法と形状から、観光面においても地域に多大な貢献を果たしている。